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大阪高等裁判所 昭和38年(ネ)1118号 判決 1967年1月17日

控訴人 岡本倭子

右訴訟代理人弁護士 渡辺伝吉

被控訴人 津田治夫

渡辺伝吉 藤林サト

被控訴人 津田睿子

右三名訴訟代理人弁護士 家藤信吉

主文

被控訴人藤林サトは控訴人に対し、金三六万円及びこれに対する昭和三六年一月二三日から支払ずみまで年六分の割合による金員を支払え。

控訴人の被控訴人津田治夫、同津田睿子に対する各請求を棄却する。

訴訟費用(当審における約束手形金請求に関して生じたもの)のうち控訴人と被控訴人藤林サトとの間に生じた部分は同被控訴人の負担とし、その余は控訴人の負担とする。

この判決は第一項にかぎり仮に執行することができる。

事実

控訴代理人は、第一審において当初の約束手形金の請求を準消費貸借に基づく請求に変更しその金三六万円と附帯の遅延損害金請求を棄却した第一審判決に対し控訴を提起し、当審ではこれに合せて約束手形に基づく金三六万円と附帯の遅延損害金の新請求を追加したのち、旧訴を取り下げ、新訴の請求の趣旨として「被控訴人らは控訴人に対し、各自金三六万円及びこれに対する昭和三六年一月二三日から支払ずみまで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決と仮執行の宣言を求めた。被控訴人ら代理人は右旧訴の取下に同意し、新訴について請求棄却の判決を求めた。

事実関係

控訴代理人は次のとおり陳述した。

(一)、被控訴人らは控訴人に対し、金額七〇万円、支払期日昭和三五年二月二八日、支払地京都市右京区桂南巽町七六番地、支払場所岡本倭子方、振出地京都市、振出日昭和三五年二月二八日、受取人岡本倭子と記載した約束手形一通を共同して振出した。(1)仮に被控訴人藤林サトが権限なくして右約束手形に被控訴人津田治夫の記名捺印をなし、同被控訴人名義の手形振出をなしたとしても、被控訴人藤林サトは同津田治夫の妻として同被控訴人の日常家事を代理する権限ある者であって、右手形の原因債務たる貸金七〇万円が右被控訴人両名の共同の家計に要した金員であったその性質にかんがみ、控訴人は、被控訴人藤林サトが同津田治夫から右手形振出の代理権を与えられているものと信じたのであり、かく信ずるについて正当な事由がある。(2)仮に右が認められないとしても、被控訴人津田治夫は控訴人に対し右約束手形金七〇万円のうち金三四万円を支払い、被控訴人藤林サトが権限なくしてなした被控訴人津田治夫名義の手形振出行為を追認した。

(二)、控訴人は右約束手形の所持人である。

(三)、よって、控訴人は被控訴人らに対し、各自右手形金七〇万円のうち金三六万円及びこれに対する本件訴状副本が被控訴人らに送達された日の翌日以後である昭和三六年一月二三日から支払ずみまで年六分の割合による金員の支払を求める。

(四)、被控訴人らの主張する抗弁事実はすべて否認する。

被控訴人ら代理人は、次のとおり陳述した。

控訴人主張の請求原因事実はすべて否認する。もっとも、請求原因(一)の(1)の事実中、被控訴人藤林サトが同津田治夫の妻であったこと、同(一)の(2)の事実中、被控訴人津田治夫が控訴人に対し金三四万円を支払ったことは認める。

(1)、被控訴人藤林サトは権限なくして本件約束手形に被控訴人津田治夫の記名捺印をなし、同被控訴人名義の手形振出をなしたものであって、同被控訴人名義の振出部分は被控訴人藤林サトが偽造したものである。

(2)、被控訴人津田治夫は昭和三五年六月中旬控訴人との間において、被控訴人藤林サトが控訴人に対して負担する債務金三四万円の履行引受けに関する契約をなし、昭和三八年九月二日までに控訴人に対し金三四万円を完済したが、右は本件手形債務とは関係がないから、被控訴人藤林サトが権限なくしてなした被控訴人津田治夫名義の手形振出行為を追認したことにはならない。

(3)、控訴人は被控訴人津田睿子の勤務先である幼稚園に突然来訪し控訴人に対しなんらの債務をも有しない同被控訴人に対し、他の職員に聞こえよがしに、同被控訴人の実母である被控訴人藤林サトに対して債権があるとして、同被控訴人に一時間余にわたり執拗に非難攻撃を加え、なんらの手形要件の記入のない白紙の約束手形用紙(甲第一号証)に被控訴人津田睿子の署名押印を強要した。同被控訴人は職務にも差し支えるので、やむをえず要求どおり署名捺印をした。したがって、同被控訴人は有効な約束手形を振出したものではない。仮に右により有効に本件約束手形を振出したものであるとすれば、その振出は控訴人の強迫による意思表示であるから、本訴においてこれを取り消す。

(4)、本件手形には被控訴人藤林サトが署名捺印をした当時手形金額の記載はなかったのであるが、その後において、控訴人は同被控訴人の意思に反して勝手に「金七〇万円」と手形金額を記載したものである。仮に同被控訴人が振出人として本件手形金債務を負担したとしても、うち金三六万円については原因関係を欠如する。本件手形は同被控訴人の控訴人に対する借受元利金の支払のために振出したものである。すなわち被控訴人藤林サトが昭和三三年頃より控訴人から呉服物を預りこれを知人に販売する内職をはじめたが失敗し、そのため、被控訴人藤林サトが当時夫であった被控訴人津田治夫に秘して控訴人から借りうけた金員とその雪達磨式に増加した利息金債務を負担していたのであるが、その債務額は金三四万円を超えなかった(その内容は確認不可能であって、結局、被控訴人藤林サトが右に関連して刑事被告人として起訴された刑事記録にあらわれた証拠に基づいて、被控訴人藤林サトの控訴人に対する債務が金三四万円であるとして、被控訴人津田治夫においてこれが履行を終ったものである)。したがって、本件約束手形金七〇万円のうち右金三四万円を控除した金三六万円については、原因関係は存在しないものというべきである。

証拠関係<省略>。

理由

当審と原審における控訴人及び原審における被控訴人津田治夫、同藤林サト、同津田睿子の各本人尋問の結果を綜合すれば、次の事実が認められる。控訴人は被控訴人藤林サトに対し、昭和三五年二月当時、数口の貸金債権等総額にして金七〇万円前後の債権を有していたところから、その債権金額の範囲を確定し、かつ、被控訴人藤林サトの夫である同津田治夫、娘である同津田睿子にもその支払義務を負担してもらうことを考え、まず、同年二月中旬頃、被控訴人津田睿子の勤務先である幼稚園に赴き、同被控訴人に対し、控訴人が被控訴人藤林サトに対して総額金七〇万円以上の債権を有している旨告げ、金額、支払期日等手形要件の全く記載していない約束手形用紙(甲第一号証)に署名捺印することを要求した。被控訴人津田睿子は後に認定する事情のもとに右手形用紙の振出人欄に自己の署名捺印をなしたうえ、これを控訴人に交付した。ついで控訴人は、その頃、被控訴人らの住所(京都市左京区下鴨蓼倉町六四番地)を訪問し、被控訴人藤林サトとの間において、控訴人の同被控訴人に対する債権総額を金七〇万円に確定することを話し合ったうえ、同被控訴人に対し、前記手形用紙の金額欄に「金七〇万円」と記載し、その振出人欄に同被控訴人及び被控訴人津田治夫の署名捺印をすることを要求した。被控訴人藤林サトは右手形用紙の金額欄に「金七〇万円」と記載し、かつ、その振出人欄に自己の署名捺印をなすとともに被控訴人津田治夫に、無断で同被控訴人のために振出人としてその記名捺印をなした。そこで控訴人は、控訴人と被控訴人藤林サトとの合意に基づき、右手形用紙の支払期日欄及び振出日欄にそれぞれ「昭和三五年二月二八日」、支払地欄に「京都市右京区桂南巽町七六番地」、支払場所欄に「岡本倭子方」、振出地欄に「京都市」、受取人欄に「岡本倭子」と記載し、このようにして手形要件の完備した約束手形一通(甲第一号証)を被控訴人藤林サトから控訴人に交付した。以上のとおり認めることができ、前記各証拠中右認定に反する部分はいずれも採用できず、他に右認定を左右するにたる証拠はない。

(一)、被控訴人津田治夫に対する請求について

前記認定事実によれば、本件約束手形の被控訴人津田治夫関係部分は被控訴人津田治夫が自ら振出したものではなく、被控訴人藤林サトが権限なくして被控訴人津田治夫に無断でその記名捺印をなし、同被控訴人名義をもって振出したものであるといわなければならない。

控訴人は、被控訴人藤林サトは同津田治夫の妻として同被控訴人の日常家事を代理する権限ある者であるが、本件約束手形の原因債務たる貸金七〇万円が右被控訴人両名の共同の家計に要した金員であったその性質にかんがみ、被控訴人藤林サトが同津田治夫名義の本件約束手形を振出すについて、被控訴人藤林サトに右手形振出の代理権を与えられたものと信じ、かく信じたことには正当な事由があると主張する。しかし、夫婦は民法七六一条の規定により日常の家事に関して生じた債務について相互に連帯して責に任ずるが、これにより夫婦は日常家事に関し相互に他の一方を代理する権限を有するものではないから本件約束手形の原因たる債務が右被控訴人両名の共同の家計に要した金員であったとしても、右事実のみでは、控訴人が被控訴人藤林サトにおいて同津田治夫名義で本件約束手形を振出すについて民法一一〇条の表見代理の成立を肯定することはできない。しかも、控訴人が被控訴人藤林サトに対し、昭和三五年二月当時、数口の貸金債権等総額にして金七〇万円前後の債権を有していたことは前記認定のとおりであるが、右債権が右被控訴人両名の共同の家計に要した金員であるということについては、この点に関する原審における被控訴人藤林サトの供述は措信できず、他にこれを認めうる証拠はない。当審と原審における控訴人及び原審における被控訴人津田治夫の各供述によれば、右債権は、被控訴人藤林サトが夫である被控訴人津田治夫に秘し、あるいは無断で、土地、株式の購入資金とか市場の権利を買いうけるために、控訴人から値りうけた金員であったり、被控訴人藤林サトの呉服物の行商によって生じた債務であったりするものであって、右被控訴人両名の共同の家計に要した金員ではないことが認められる。控訴人の表見代理の主張はとうてい採用できない。

控訴人は、つぎに、被控訴人津田治夫が控訴人に対し本件約束手形金七〇万円のうち金三四万円を支払い、被控訴人藤林サトが権限なくしてなした被控訴人津田治夫名義の手形持出行為を追認したと主張する。しかし、被控訴人津田治夫が控訴人に対し金三四万円を支払ったことは当事者間に争いのないところであるが、原審における控訴人及び被控訴人津田治夫の各供述によれば、本件約束手形の原因債務のうち金三四万円について、被控訴人藤林サトが詐欺罪で刑事訴追をうけ、その刑事弁護人であった家藤信吉弁護士が被控訴人津田治夫に対して、夫として示談をするよう説得するところがあったので、被控訴人津田治夫は、家藤信吉弁護士を代理人として、昭和三五年六月頃、控訴人との間において、右金三四万円について示談交渉をなし、結局、右金三四万円のうち金一五万円を即時に支払い、残額金一九万円については同年七月から毎月金五、〇〇〇円宛支払う旨示談が成立し、被控訴人津田治夫は示談に基づき全額金三四万円を支払ったものであることが認められる。したがって、被控訴人津田治夫が控訴人に対して金三四万円を支払ったのは、本件約束手形金七〇万円の一部の履行をしたものではなく、右認定の事情においては、被控訴人津田治夫が同藤林サトの無権代理行為を追認したものではないと認められる。控訴人の右追認の主張は採用できない。

(三)、被控訴人藤林サトに対する請求について

前記認定事実によれば、被控訴人藤林サトは、控訴人に対する債務の支払のために控訴人主張の本件約束手形一通を振出したものであるというべきである。そして、控訴人が当審において本件約束手形一通を甲第一号証として振出した事実により、控訴人が本件約束手形を所持していることが認められる。

被控訴人藤林サトは、控訴人は同被控訴人の意思に反して手形金額をほしいままに金七〇万円と補充したものであり、また本件約束手形の原因たる債務はその債務の内容が確認不可能であって、被控訴人藤林サトが右に関連して刑事被告人として起訴された刑事記録にあらわれた証拠に基づいて、被控訴人藤林サトの控訴人に対する債務が金三四万円であるとして、被控訴人津田治夫においてこれが履行をなしたのであるから、本件約束手形金七〇万円のうち右金三四万円を控除した金三六万円については、原因関係が存在しないと主張する。しかしながら、本件手形金額は控訴人と被控訴人藤林サトの合意に基づき同被控訴人自ら記載したものであることは既に認定したとおりであるから、補充権乱用の抗弁は理由がない。また控訴人が被控訴人藤林サトに対し、昭和三五年二月当時、数口の貸金債権等総額にして金七〇万円前後の債権を有していたことは前記認定のとおりであって、本件全証拠によっても、右債権の具体的な内容、金額を明らかにすることはできないが、ともかく控訴人は被控訴人藤林サトに対し、昭和三五年二月当時、数口の貸金債権等総額にして金七〇万円前後の債権を有していたところから、被控訴藤人林サトが本件約束手形を振出すに際し、控訴人と被控訴人藤林サトとの間において、控訴人の同被控訴人に対する債権総額を金七〇万円に確定することを合意したことが認められるから、被控訴人藤林サトの原因関係不存在の抗弁も採用できない。

そうすると、被控訴人藤林サトは控訴人に対し、本件約束手形金七〇万円のうち金三六万円とこれに対する本件訴状副本(右手形金三六万円の裁判上の請求)が被控訴人藤林サトに送還された日の翌日以後であること本件記録上明らかな昭和三六年一月二三日から支払ずみまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払義務がある。右訴状送還の付遅滞の効力と訴の変更との関係について附言するに、控訴人は、一審において本件訴状に基づく本件約束手形金の請求を準消費貸借に基づく請求に変更したことは事実冒頭に記載したとおりであるが、一旦訴状の送達によって生じた債務者付遅滞の効力については、時効の中断に関する民法一四九条の如き規定は存しないから、訴の変更により何らの影響を受けるものではないと解する次第である(大審大正二年六月一九日民録一九輯四六三頁参照)。

(三)、被控訴人津田睿子に対する請求について

控訴人は、被控訴人津田睿子が手形要件の完備した控訴人主張の本件約束手形一通を振出したと主張する。しかし、本件全証拠によっても、控訴人の右主張事実を認めるにたる証拠はない。前記認定事実によれば、被控訴人津田睿子は、金額、支払期日等手形要件の全く記載していない約束手形用紙の振出人欄に自己の署名捺印をなしたうえ、これを控訴人に交付したものであることが明らかである

約束手形用紙の振出人欄に、署名捺印してこれを他人に交付した場合、手形要件の記載を完了しない未完成の白地手形の振出があったものか、手形要件の記載を欠く手形としては無効な証書の作成に終ったにすぎないかの判定は、もっぱら、署名者においてその証書に後日なんびとかによって要件が補充せられ手形として完成されることを予測し、これを意図して署名捺印をしたかどうか、その具象として署名者とある他人との間に白地補充権授与の合意もしくは署名者のその旨の表意の有無の一事によって決せられるものと解すべきである。もとより、約束手形用紙には約束手形なることを示す文字が表示され、空白部分に簡略に所要事項の記入補充がなされることにより約束手形の外観体裁を具備するものであるから、その振出人欄に署名捺印した場合には、要件白地の有効な約束手形の振出がなされたとの事実上の推定が容れられるべきであるが、反証の存するときは、右推定事実と結論を異にするに至ることはいうまでもないのである。よってこの点を検討する。原審と当審における控訴人及び原審における被控訴人津田睿子の各本人尋問の結果によれば、控訴人は、昭和三五年二月中旬頃、被控訴人津田睿子の勤務先である幼稚園に突然赴き、当時園児の保護者が大勢参観のためきており、同僚がとおりかかるといった状況のもとにおいて、三、四十分ないし小一時間にわたって声高に控訴人が同被控訴人の母である被控訴人藤林サトに対して総額金七〇万円以上の債権を有している旨告げ、その債権の内訳を明確に説明することなく、ひたすら持参の約束手形用紙に署名捺印することを迫るので、被控訴人津田睿子は、やむなく控訴人の被控訴人藤林サトに対する債権の存否も確認することなく、右手形用紙に自己の署名捺印をなして難を避けた経緯であって、手形金額や支払期日その他の要件に触れた話題は被控訴人津田睿子からはもちろん、控訴人からも持ち出されていないうえ、当時被控訴人津田睿子は要件白地の約束手形用紙に署名捺印することがいかなる意味をもつかについて格別の認識をもっていなかったことが認められる。そうだとすれば被控訴人津田睿子は右約束手形用紙の要件の白地部分に後日手形要件が補充されて約束手形が完成し、その振出人として手形債務を負担する意思をもって、これに署名捺印したものではないことが明らかであり、被控訴人津田睿子と控訴人との間において、白地補充権の授与について合意が成立したものとは到底認めがたい。

(四)、以上のとおりであるから、控訴人の被控訴人藤林サトに対する約束手形金請求は正当として認容すべきであるが、被控訴人治夫、同津田睿子に対する同請求はいずれも失当として棄却すべきである。よって、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九五条を、仮執行の宣言について同法一九六条第二項本文を各適用して主文のとおり判決する<以下省略>

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